「楢山節考」(83年)、「うなぎ」(97年)でカンヌ国際映画祭で2度のパルムドール(最高賞)を受賞するなど国際的に評価の高い今村昌平監督が30日、東京・代々木のJR東京総合病院で転移性肝腫瘍(しゅよう)のため死去した。79歳だった。今村監督は58年に「盗まれた欲情」で監督デビューし大型新人として注目を集めた。テーマとして「日本人とは?」を追い求め、人間の性をとことん追求。その一方で75年に横浜放送映画専門学院(現・日本映画学校)を設立。後進の育成に力を注いでいた。巨匠の死去に世界中の映画界が悲しみに包まれた。
日本が世界に誇れる巨星が落ちた。今村昌平監督が30日午後3時49分、長年連れ添った妻・昭子さんにみとられて黄泉(よみ)の世界へ旅立った。
死因は転移性肝腫瘍。05年6月に大腸がんの手術を行ったが3か月後に肝臓に転移していたことが発覚。何度も入退院を繰り返しながらも復帰へ意欲的だったが、今年の4月に風邪をこじらせ入院。症状が悪化し、ここ1週間はほとんど意識がない状態で、最後は眠るように息を引き取った。02年に米国同時多発テロを題材にしたオムニバス映画「セプテンバー11」の日本編「おとなしい日本人」が遺作となった。二男・☆介(ひろすけ)さん(43)は「年齢的にはそう言えないが、好きなことやったんで大往生と言えるのでは。十分満足いく人生だと思う」と語った。
豪放磊落(らいらく)な生き様を貫いた。20代後半で糖尿病を患いながらも美食家で大食漢。焼酎を好み、晩年は禁煙したもののヘビースモーカーで鳴らした。カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した「楢山節考」では自信作ながら、カンヌ入りせずに東京の雀荘でマージャンの最中に受賞を知ったほど。97年に役所広司主演で日本人として初の、世界でもフランシス・フォード・コッポラ監督らに次ぐ4人目となる2度目のパルムドールに輝いた「うなぎ」のときにも、「ダメだと思った」と発表を待たずに帰国していた。
豪快な性格とは対照的に、映画には真摯(しんし)に向き合った。小津安二郎監督や川島雄三監督に師事しながら「映画はシナリオ次第」と若いころは家庭教師をしながら食いつなぎ、脚本の執筆に没頭。生み出す作品には常に「日本人とは?」の問いがあり、人間の業と根底にある性への欲望を重厚にそして赤裸々に描き続けた。
監督業と平行して75年には日本初の映画学校となる横浜放送映画専門学院(現・日本映画学校)を設立。一時は億単位の借金を抱えながら、後進の育成に心血を注いだ。そこから三池崇史監督、本広克行監督が誕生。ウッチャンナンチャンら多くの人材を育て上げた。
晩年は、自らメガホンを執ることはもちろん、日本の映画界全体を考え、後継者の育成を常に気にかけていたという。「常識に縛られるな」をモットーに映画人生を壮絶に生き抜いた今村昌平。その魂は、残した作品や映画ファン、育て上げた後輩の映画人の心の中に永遠に生き続けていく。
☆=「立」へんに「広」
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