映画「男はつらいよ」シリーズの常連で、テレビドラマの名脇役としても活躍したコメディアン、関敬六(せき・けいろく=本名・関谷敬二)さんが23日午前2時8分、肺炎のため都内の病院で死去した。78歳だった。東京・浅草のフランス座で“寅さん”こと、大親友だった故渥美清さんらとトリオを結成し、日本の喜劇界を牽引。晩年はかつてのにぎわいをなくした浅草大衆演芸の灯を復活させようと、尽力した。
寅さんの大親友で、誰よりも浅草を愛した敬六さんが、寅さんの待つ天国へと旅立った。
23日夕、東京・葛飾区内の自宅マンション前で会見した妻の恵子さん(70)によると、敬六さんは2日間泊まり込みで看病していた恵子さんが自宅に帰っている間に、誰にも看取られることなく、ひっそりと息を引き取ったという。
恵子さんはハンカチを握り締めながら「覚悟はできていたんですが…」と言葉を詰まらせ、「大好きだった競艇へ行く時の後ろ姿が忘れられません」と嗚咽した。
敬六さんは30年前から糖尿病を患い、渥美さんが亡くなった直後の平成9年8月に心労も重なって脳梗塞(こうそく)で倒れた。以来、体調はおもわしくなかったが、昨年秋に「頭がくらくらする」と不調を訴え、精密検査で正常な血液が造れなくなる病気の骨髄異形成症候群と診断された。
その後は入退院を繰り返していたが、今年6月11日に入院してからは意識がもうろうとする日々が続き、23日未明、帰らぬ人となった。3月に浅草・木馬亭での舞台「お笑い浅草21世紀」が最後の仕事だった。入院中も高熱でうなされながら、恵子さんに「靴を履かせろ」と叫ぶなど、舞台復帰への並々ならぬ執念を見せていたという。
敬六さんは昭和30~40年代、浅草のフランス座を拠点に渥美さんらと結成した「スリーポケット」で人気を博し、丸顔の愛嬌ある風貌で親しまれた。その後、テレビに押されて浅草演芸が衰退していくのを目の当たりにし、「浅草の軽演劇の灯を消すな」を合言葉に「関敬六劇団」を50年に旗揚げ。喜劇魂を浅草演芸再興にぶつけた。
渥美さんの主演映画「男はつらいよ」シリーズでも寅さんの仕事仲間役で出演し、なくてはならない存在に。58年に渥美さんの提案で、2人一緒の位牌を作ったほどの大親友だった。子煩悩としても知られ、渥美さんが命名した二男、次朗さん(34)が平成6年に同作で俳優デビューした際には、渥美さんの友情に感激した。渥美さんが亡くなってからは墓参りを欠かさなかった。
「遅いじゃないか」「待たせたね」。そんな2人の会話が、天国から聞こえてきそうだ。
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